昭和五十七年七月五日 朝の御理解


御理解 第九十二節
 「神は一体ぢゃによって此方の広前へ参ったからと云って別に異  ふ所はない彼所ではおかげを受けたけれど此処ではおかげが受  けられぬと云ふのは守り守りの力に依って神のヒレイが異ふの  ぞ神の森をして居れば諸事に身を慎み朝寝をしてはならぬ早く  起きると遅起きるとは氏子が参詣の早い遅いにかゝはるぞ」 

山口支部の支部長である浅野さんから電話があった。
一日に皆でお参りをして来ますがお百姓しとる方が、最近、お日照り続きで田ぼが枯れかかっている。どうぞ、おしめりのおかげを頂きますように、という事でした。ところが、昨日の電話を頂いて、「親先生、不思議なおかげを頂いとります。おしめりというのは、上からだけではない、下からも湧いてくる、という事がわかりました。」と、そのお願いをしとる人の田ぼだけ、どこからかわからんけども水が出ると云うのです。
もう、近所、隣の人も、もうたまがって、兎に角、おかげを受けておる事は、勿論ですけれども、支部長さん自身も、本当に広大なおかげを頂いてというお礼のお届けでございました。
おしめりというのは、必ずしも上からだけではない、ね。下からも、どこからかはわからんけれども湧いてくる、と。今迄かって、そういう事がなかった。
昨日は神愛会でございましたから、皆さん、先生方皆お話を聞かせてもらいましたが、石動教会の、いわゆる陸奥ですね、宮田先生の発表を聞かせて頂いて、合楽に通うてみえる真価というか、値打ちがようやく、昨日云っておられましたが、合楽に通わせて頂くようになって二年四ケ月になります、ね。             おそらく三日、三日以上かかるんぢゃないでしょうか、あちらから此所へ。なかなか、やっぱ教会長としてはずされんのだけども、これだけはおくり合わせを願って二年四ケ月続きます、ね。その二年四ケ月ぶりに、初めてわからせて頂いた事は、ね、もう合楽の信心は、有り難くなる稽古以外にはない、と。私は、それを聞かせて頂いて、ね、も、何年経っても、も、理屈は判っておっても、そこに本然として悟れるという事は、ね、素晴らしい事だと思うです、ね。だから、兎の角、有り難くならせて頂く為には、どうしても本心に取り組むより他にないのです、ね。いうならば、いよいよ御理念に基づくより他にないのです。
もう、おかしな様に、ありがた涙がこぼれるよううな日々だ、という発表をなさっておられました。今日の御理解で云うと、ね、どうして人が助からんだろうかとか、ね、どうしてお参りが少ない、これは、まあ、教会長に対する御理解だと思うんですけどもね。これはお互い信心頂いとっても、そうです、ね、守々の力、いうならば、守々の力でもあろうけれども、信者一人一人の受ける力がいるのです、ね。その、受ける力は、私は、真に有り難いと思う心直しに霊験の始めなり、とおっしゃるように、その、真に難有りを追求することだと。こうお願いをした、おかげを頂いた。それこそ涙がこぼれる程有り難い、というのは、真に有り難しぢゃないと思う。
どういう中にあっても、ね、いうなら、ありがた涙がこぼれるような有り難い心の状態が開けてくる、という事。偉くなる為でも、賢うなる為でもない。信心は、も、有り難くならせて頂く稽古だというふうで、合楽では云われるんですけども、ね。だから、その、偉い人になろうとか、という事は、なかなか、それは、頭もなからなきゃならん、腕もたたなきゃならのでしょうかれども、有り難くなるという事なら、やっぱ、いうならば、誰でもなれれるという事。その気になれば、私はいつも思うです、も、本当に日本一有り難い私になろうと、こう思うんです。だから皆も、日本一有り難い私になろうと思うておかしい事ではない、ね。有り難い、ね、初めて、いうならば合楽にお参りしょうと思えば、それこそ、もう、ま、三日、二日ですか、二日かかるわけですかね。で、この二年四ケ月というから、何十回かお参りを続けておられるんですけれども、初めてわかったと。これは、私は、一つの悟りだと思うんですね。
その、有り難いというものが、いうならば、力を頂く土台なのです、ね。勿論、私は、ここで云われる守々の力という事は、神様を信ずる力だと思います、ね。神様をどれほど信じておるかと云う事。信ずる力です。百斤持ってる力、ね、二百斤でも三百斤でも持てる力持ちがあります、ね。その力も限りなく、いうならば、頂いていく事が出来るのです。
もう、私は何にも出来ない、もう、無芸無能にして。私が以前、こ○を書いてちょん(ヽ)そして下に一の字をこう書いて、これは椛目時代に神様から頂いたんです。ですから、私がいろんなものを書いた時に、ま、サインがわりにこれを書く。○を書いて、そして一の字、そして神様から、我こそは無芸無能にして何とか、ち云う、そして信あるのみ、と云う。あるのは、この○と云うのは、宇宙を示したもの、天地を示したもの、てんというのは、それこそ浜の砂沙にも似た、も、真砂一粒がたもない自分だ、という事である。
何もない、自分で出来るということは何一つない。けれどもね、神様を御信じ申し上げとるだけが、私のとりえだというのです、ね。その神様を信ずるという事もです、んなら、やはり一年一年それが本当なものになっていく、強くなっていく。
ここで成り行きを大切にせんならん、というけれども、成り行きを大切にせずにはおれない、という信心がなからなければ、ダメです。そこまで行なきゃね、そうでしょ。
成り行きそのものが、神様の働きであると信ずるのです、ね。その信ずる事ができるから、成り行きなんか、とても勿体なくて粗末に出来ない事になる。成り行きを大切にせな、もう歯を食い縛って辛抱しとる、というのぢゃ、やっぱ出来ないわけ。
神様を信ずるから、その働きを、そのものがどんなに、普通で云うならば、はがいい事であろうが、悲しい事であろうが、それを合掌して受けていけれる神様を信ずるから。だから、いよいよ信ずる心が豊かに大きくなっていく。おかげの受けものが、いよいよ豊かに大きくなっていく、という事になるのでしょうが、ね。だから、そういう私は、おかげをいよいよ、ま、大きくしていく事の為にですね、まずは有り難くなる稽古、ね。お道の教師といや、ま、いうならプロです、玄人です。そのプロの先生が、ね、長年の、いうなら修行も、または、お道の教師としての、ま、経歴を持っております。だから、ね、それが結局、先生自身が、も、兎に角、有り難くなる稽古だと。も、自分が有り難くなる以外にない、と判った時に、ね も、いよいよ御理念に基づく生き方を身に付けていく以外にはないです。また、自分の心を見極めていく以外にはないのです、ね。
これは、お道の教師だけぢゃありません。合楽で云われる、なら、成り行きを尊ぶとか、大切にすると云われる事でも、ね、合楽に参りよるから、黙って辛抱しとかなんならんと云ったようなものではいけんのです。合楽では、なぜ辛抱しなければならないかと云う事を説くのです。それは、神様があなたに求め給う修行なんです。それは、神様のそのままが働きなのです、と説くのですから、それがわかったら、ね、それを大切にせずにおられないと云う事になりましょ、ね。そこから、いうならば、生まれて来る愛の心。いわゆる、人が助かる事さえできれば、と云うのです。これは、私は、神愛だと思うですね。
人が助かる事さえできればというのは、神愛です、ね。その、神愛の度合いが、いよいよ深く大きくなっていく、ね。また、神様を信ずるという力も、いよいよ大きくなってくるのです、ね。も、信心ちは、も、確かに、有り難くなる稽古ち、も、悟れたとこから、ね私は、合楽の本当の信心がうまれてくると思うです。
有り難くなる稽古せずにおれない。それをなら、日々ここでは、いうならば、有り難くなる稽古なんです。み教えなんです、ね。信心とは、結局、偉くとか賢うなると云う事ではない。ただ、有り難くなる稽古だと。また、信心しておれば、一年一年有り難くなっていくと云われるが、ね、一年一年有り難うなっていないならば、どこにか間違いがあるんだと、ね。それは、なら、焦点が間違っているんだと。そこで、なら、合楽理念は、その焦点をはっきり的確に教える、ね。
昨日丁度、昨日で三日間ですか、参られますある教会に、も、それこそ熱心にお参りされた。たまたま、その方の知った人が、丁度一時の御祈念にここへ、夏期信行へ通ってきておるところで、表で出合った、ね。はあ、本当に合楽教会の事は、聞いてはおったけれども、ね、兎に角、夏期信行が今ありよるからお参りしなさい、と云うて、参って見えたのが、ま、三日前でしょうか、昨日朝の御祈念に参って見えて、今朝も参っておられるかもわかりません。一時の御祈念にも、昨日は家族中で参っておられました。永年の信心しとるから、ま、いうならば、教祖様のみ教えなんか、もう暗唱しておられる位に詳しいのではないだろうか。
娘さんが、もう、縁につかれて十五年になる、ね。それが十三年になる、と云うておられましたが、あの、御主人が三角関係で、その娘さんが大変難儀をしておられる。もう、自分なもう、あそこにはもてんけん帰ってくる、と、ま、云われてもです、いつも金光様のみ教えを、ね、辛抱しなさい、辛抱しなさい、金光様はこう教えておられるからと云うて、その教えで、いうならば、雁字搦にしてしまった。三日前に参っておられた時に、本当に金光様の御信心を頂いてなくて、教えで辛抱させていなかったら、ね、本当に、今頃はおかげ頂いたかも知れん。あんまり押さえに押さえて来た、も、十三年間、だから頭に来た、ね。
いわゆるその、ノイローゼで、ね。その事を思い詰められた。
だから本当に、手かせ足かせするような教え、云うて聞かせる事だけぢゃなかったらです、ね。本当にそういう事にならんですんだかも知れん、とこう云う。
先生、どういうような信心をさせて頂いたら、おかげが頂きましょうか、ということであった。そこで私は、今も申します、ね、あなた方は、も、永年の信心ですから、おそらく神様も麗々しうお祭りしてあるだろう。朝晩の御祈念もきちっとなさっておられるだろう。朝参りも毎日そのお教会になさっておられるだろう。けれども、それだけぢゃいかんのですよ、と。神様を大切にする、という事は、神様の御働きそのものを大切にしなきゃいけんのですよ。    神様だけは大切にして、神様の働きそのものを大切にしない。それを、合楽では成り行きを大切にする、成り行きを尊ぶ、というふうに云うから、これから起きて来る一切の事を大切にしなさい、と。昨日も、ま、家族中でお参りをさして頂かれました、そして、今から娘が病院に入っとりますから、そちらに、ま、見舞い方々行きたいと思うが、本人に何か一言神様から云うてやる事を教えて下さい、という事であった。私は、神様にお願いさしてもらったら、ね、ある人が、その、蓑笠をつけておるところを頂いた。私は、も、胸が一杯になって伝えられん位にあった、ね。そして、その、御理解にです、蓑笠をつけると云ゃあ、雨ぢゃ風ぢゃという時に、違いはないけれども、いつまでも雨が降るという事はない。必ず晴れる日が来る、今はそういう蓑笠をつけておらねばならん程に、頭が重かったり身体が重かったりしておる時なんだけれども、ね、お縋りさせて頂いとれば、必ずおかげが頂ける。晴れた日が来る、と、そう、その、私はその事を、その方に伝えさして頂きながら、私のほうが感動した、ね。
お互いの難儀というのは、ね、いうならば、それこそ雨が降るから風が吹くからえらい、と思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳をうける修行ぢゃ、と仰せられるが、それを、ただ辛抱せよ辛抱せよで押さえに押さえてきたから、十三年間それが辛抱に辛抱しきれなくなって、夜も眠れないようになった。頭に来たというのぢゃないでしょうか、ね。だから、ただの辛抱ではいけない、ね。信心辛抱でなかっらなきゃいけない、ね。その、信心辛抱の、いうならば、目当てというものが、焦点が間違ったらそういう事の結果になるのです。その、合楽では、その焦点を、ん、いうならば、ね、信心とは有り難うなる稽古なんだと、ね。 それも、なら、聞いて本当にそうだと判っただけぢゃなくて、昨日の宮田先生のお話ぢゃないけれども、二年四ケ月ぶりに初めて、ま、兎に角、有り難くなる事以外にはない。 人が助かるとか助からんとか、教会のいろんな問題、いろんな・・・そういう中に、有り難い自分にならせて頂く以外ない、と、心に焦点がはっきりと、いうなら悟れた。そこから、なら有り難くなるためには、いよいよ、心を大切にしなければおれないことになってきた。そこに、合楽理念をもってする事が段々判って来た、というにです、ね。ですから、ただ辛抱しておけばよい、というのぢゃないです。辛抱力ぢゃないです。その、雨が降るから、風が吹くから、その雨も風も、また神愛だと、わからせて頂いての辛抱でなからなければいけない、という事を思うです、ね。
ここでは、守々の力とあるけれども、これは信者一人一人の力、合楽で同じ御理解を頂いて、同じお参りの、なら、を、しておるけれども、ね、有り難くなっていく人、ならない人、おかげを受ける人受けない人、ありましょ。だから、結局一人一人の信心だと。だから問題は、本気で有り難くならせて頂く。それは有り難く思えん事があるけれども、ね、実際問題としては、けども、なら、これを有り難く頂くためには、と、いうところに焦点を置いて、段々おかげをいただいておる、ね。それが、本当に神愛である事がわかる。
それを実験実証さしてもろうて、それが本当に無駄と言う事はないんだな。一切が神愛だなあ。わかりにわかっていくところから、神様を信ずる力をいよいよつのってくるのです、ね。その信ずる力がね、私は、今日ここで云われる守々の力とは、神様を信ずる力だと思う。その根本になるものは、有り難いという心になる事を、まず先決としなければ、ね。
有り難くなる手立てをん、御理念に求めて信心修行さして頂いたらそれこそ、誰でも有り難くなれれると思うです。どうでしょう、何でもない事の中に有り難いなあという心が湧くようになったら、もう、それこそ、あなたは助かったという事が云えると思うです、ね。まずは自分が助からな。 宮田先生も云ってました。まずは、私自身が有り難くなる事、私自身が助かる事なんだと、ね。そこから頂くおかげは、また、これは限りないおかげにつながっていく事でございましょう。皆さん本気でね、信心とは、も、有り難くなる事だと、悟れれる信心を身につけたいですね。                                「 どうぞ 」